機械と人の違いとは

コンピューターで音楽を創り上げることは、今では常識です。生演奏であっても、いざ録音しようとするとそれは電子化されるのが常識です。電子化され、コンピューターで演算されることが当たり前になっているのです。

ただ、そのコンピューターを用いて音源を鳴らす、つまり人の演奏ではなくプログラミングされた演奏を機械が再現することと、人が生で演奏することは根本的に違うものなのです。「ドラム」という楽器は生楽器の究極系です。それはアンプを通さないというだけではありません。全身が、演奏者自身が、「音楽を体現する」という楽器だからです。全身の神経、全身の筋肉が音楽のために注がれます。流れる時間の中で、妥協できない一瞬が続くのです。油断できないタイムラインの中を、自分の身体で刻むのです。それがドラマーとして音楽と同化するということです。音楽に「成る」ということです。

コンピューターで刻まれたビートと、私たち「人」が刻むビートは根本が違います。私たちの刻むビートは、ただそこにある「音の連なり」ではないということを理解しましょう。そこにあるのは私たちの「意志」、私たちの感性が「音」として具現化したものです。コンピューターで刻まれたものは作った人間の意志、正確に、狙い通りに、そして客観的に刻んだものです。

どちらが優れているというものではないのです。ただ「音楽をイメージどおりにプログラミングしていくこと」と、「リアルタイムでその音楽に成る」という違いです。クリエイトするということはどちらも同じですが、より自然に音楽を体現できるのは後者です。ドラマーとしてのカタルシスは、その瞬間にあります。自分自身が音楽になっているということ、自分自身がビートの権化としてそこに存在しているということが、音楽を奏でる上でのカタルシスであるはずです。

コンピューターでプログラミングした時のカタルシスと、ドラマーとして演奏する際のカタルシスは別のものです。別の視点で考えるべきことです。私たちはそれらのカタルシスを感じるとき、「音楽は楽しい、心地いい」と実感するのです。音楽を奏でる理由のひとつが、このカタルシスです。自分の中に蓄積された「何か」を、自分の中で体現すべきだと考えていた何かを、「音」というカタチでそこに表現するのが私たち音楽をクリエイトする人間が求めていることです。音楽を作るということは、そういうことです。

コンピューターのビートと自分が叩いたビートを比べることはナンセンスなのです。それは別の次元で作られたものであり、別の次元で考えるべきものなのです。ドラマーとして必要なことはいかに音楽を「体現」できるかということです。「体現」ということは、「カラダで表現する」ということです。自分自身のひとつひとつの動き、自分のスティックがヒットする瞬間、その瞬間に音楽が生まれて、その連なりが音楽になって、そうして表現した時間軸が音楽になっているということを学ぶべきなのです。

ドラマーの的はコンピューターのビートだという人がいます。ですがそれはまったく間違いです。私たちに必要なのは音楽を音楽として受け入れる姿勢、人の音楽も、自分の音楽も、すべて楽しめるという音楽を認める姿勢なのです。