聴いている側と演奏側の差

音楽を演奏して人に聴いてもらうという行為は、音楽リスナーから一気に「演奏側」に一段階次元を変えたものになります。それは「素人」から「玄人」へ移行することと似ています。

そのような音楽に関わる際の「階層」があるとすれば、自分の演奏を誰かが聴いている限り、それは「音を出す責任」、「聴かせる責任」を背負うことになります。音楽を人に聴いてもらうということは、その人の時間を自分の演奏のために「借りる」ということでもあります。自分の演奏のためにその人の時間を自分と共有してもらう、同じ時間の流れを経験してもらうということです。それは限られた人生、限られた時間しか持ちあわせていない私たちは、その生涯で聴くことができる音楽の数にも限りがあります。世の中のすべての音楽を聴き干すことは事実上不可能であり、その中でどれだけ自分が気に入る音楽を聴くことができるか、触れることができるかということを日々考えるのです。

自分が好きな音楽、自分が触れたい音楽を耳にすることは、心地がいいものです。音楽を聴く際には音楽を奏でるときとはまた違うカタルシスを得られるものであり、たくさんのひとに聴いてもらえる音楽というものは人に対してそのような「感動」を与えるものです。そのような感動を得るのかは人によるのですが、ただ共通していえるのはそこには確固としたプライドがあり、そこには自分たちの音楽で時間を紡ぐという信念があり、聴いて損はさせないと、聴くことに費やした時間以上の価値はあるのだと、人に対して訴えかけるものがあるということです。

そのような音楽の数々に触れるとき、その演奏者が何を考えているのだろうという事に対して思いを巡らせることで、自分が演奏する側になったときに何を考えればいいのだろうということがわかるのではないかと、そう思うのです。

奏者もさまざまなことを考えているのは間違いありません。仕事としてその音楽の演奏に関わっている人、自分のプライドとして、自分の時間の使い方としてその音楽の演奏に関わっている人、さまざまいることでしょう。そこに共通して存在しているのは「決して音楽を蔑ろにしない」ということです。決して音楽を貶めたり、足蹴にしたりしないという姿勢です。さまざまな人と、その音楽を通じて時間を共有するのであれば、その「時間」を大切にしようという姿勢です。

聴いている側はその「与えられた時間」、その音楽で刻まれる時間を演奏者、そして周囲の人と分かち合うのです。そのような「わかちあうため」との時間を作ることが、「音楽を演奏して聴かせる」ということです。時間は有限で、尊いものであるということを如何に理解できるか、限られた時間を割いて聴いてもらうことができているという現実に感謝できるか、その場がどれほど尊い場所で、その時間には価値をつけることができないということを理解できるかどうかが「鍵」です。

自分が好きで演奏している、自分がやりたいからやっているということは大前提です。ですがその「先」は聴く人がいるということ、その聴く人のために自分は何を尽くすべきなのか、それを知っている人こそが、「演奏しても良い人」ということになるのではないでしょうか。